私がブログを書く理由

母親業を卒業し新しい家族の形でいきていく

とうとう一人になった

父が2019年7月7日なくなった。その日から私は毎日ノートにその日の出来事などを記録し続けている。そのノートの表紙には『あれから 7/7』と書いている。もう10冊目に入った。

 なぜ書き始めたのだろう。父がいなくなってしまった日々を毎日忘れずに記録しようとしたのか。忘れてしまうことが怖かったのだろうか。毎日の苦しみを忘れてしまうと本当に自分を見失いそうな気がしていたのか。

書くことは確かに好きなのだとは思う。

ただ本を読むことがあまりなかったので語彙力にかなり問題があるように感じている。本はこの2年間が生涯一番読んでいる。少しだが語彙力の進歩もはじめて感じている。

しかし書くことは嫌いでないことにははじめて気がついた。

 

その時病院に入院している母がいた。母はもう寝たきりで胃ろうでその命を長らえている状態だった。もうずいぶん前から私のことを認識することはなくなっていた。もちろん話もすることはなく、ただ生きていた。寝たきりの体は、パーキンソン病の影響で硬直し、やせ細った足は曲がったままの状態だった。足をまっすぐ伸ばすことはできないためにおむつがずれてしょっちゅう尿が漏れてしまっていた。

コロナで面会もできなくなり、母は病院でただ生きていた。

母はもう何も心が苦しむことはなくなった。心が悲しむ事もなくなった。それだけが私の母への罪悪感のいいわけになった。

母は生きていたが

父が死に私は一人になったのだ。

父はその数年前から肺気腫とがんを患っておりさらに新たに転移したがんも見つかっていた。母は寝たきりになっていって意思の疎通は叶わない状態になっていたため私は父の状況を誰かに相談することができなかった。

近所には母の親戚が住んでいたが残念ながら父のことを良く思っていなかった。当然のことだった。父はある意味母の親戚をしたに見ていた。叔父や叔母は母のことはどんなにか心配してくれていたと思うが長年母を苦しめたのは父と思っていたため、母の兄弟にとても父のがんのことを相談することなどできなかった。

根っこのところは父は気の弱い人だったと思う。だから人に対して傲慢な態度をとっていた。気に入らないとすぐに怒鳴り散らした。老化もあったとは思う。

子どもの頃家族で外食して父がお店に対してイライラしないときはなかったように記憶している。

外食は嬉しいのに父の怒りが必ずついて回った。

そんな父だったが、ガンの転移を知り、手術は無理であることを把握してから、父はまだまだ死にたくないと思っていた。自分が死ぬはずないと思っていた。

がんが転移したことはわかっていた。病院での診察日には、血液検査の値から熱心に自分の命の危険度を尋ねていた。数値の変化があまりないとまだ大丈夫だと確認していた。

父はよく本も読み、人と会話をすることが好きな人だったが、自分の意見が絶対と思っているところがあった。

定年後その性格はますます他人への攻撃的な態度にエスカレートした。老化もあったはず。寂しさもあっただろう。肩書がなくなった昭和のサラリーマンの典型的な状態でもあった。

母のこと

そんな父と長年ともに暮らす母はどれ程のストレスを感じていたのだろう。自分の本当の気持ちに目を向けることなどできない程のストレスであったに違いない。じぶんのことは二の次なのだ。自分のありのままの気持ちに目を向けたら、耐えられなかっただろう。父のため、子どものため、自分の両親のため、友人のため、最善を尽くそうとしていた。自分はいくらでも我慢することができる。人に尽くすことが自分のいきる道と思い込んでいたと思う。父からのストレスから逃れる手だてなど考えられなかったのだ。

 

母は認知症が進行していた。兄の死、父の定年退職が重なり、母のストレスはMAXだっただろう。

そんな母を私は少しも助けてあげられなかったのだ。

常に優しくいつも他人のことを優先していた母は、認知症になりその性格は一変した。

そして父のストレスは母を怒鳴ったり、車を塀に何度もぶつけたり、私の家に怒鳴り込んだりと爆発していた。

私の実家はある意味修羅場と化していた。

 

両親より先に死んだ妹と兄

私には妹と兄がいた。妹は24才の時死んだ。兄は44才の時心不全で急死した。

妹は心優しい友人の多い、私には自慢の妹だった。家族思いで、へそ曲がりの姉の私を大事に思ってくれていた。

あのバブルのころ妹は心の病となった。家族がそのことに気が付いた矢先の出来事だった。それから妹のことを口に出すことができなくなった。兄がたまに口に出したが、両親と私は結局一度も妹のことを話すことはなかった。

今ここに妹のことを書いている私がいる。妹の死がやっと私と距離ができたのだろう。妹の死をやっと俯瞰して思い出すことができるようになったのだ。30年以上かかった。今は両親と妹の話をしたいと思う。二度とできないが。妹の思い出を父と母と兄と話したい。

 

 

離婚

自分の家族の住む家から500メートルしか離れていない実家が修羅場と化していたころ、私は夫との関係に苦しんでいた。自分の苦しみを優先し、実家のことをないがしろにしたといえる。私の心は疲弊していた。そのために母を助けてあげることができなかったと思っている。

私は 後悔 だらけである。 母のために あらゆることをしてあげたかった 。 毎日一緒に散歩してあげたかった 。 母の相手をすることで 父の気持ちを 少しでも 和らげてあげたかった。 私にはその全てができたのに その全てをすることができる 能力があったのに 私はその時 何より利己的な人間でした。 自分の苦しみ しか考えられない世界にいました。 あの時の私には あの世界が精一杯の世界でした。 私を苦しめる 夫を憎んでいました。 全て 夫の 無知 が私を苦しめると思っていました。 私は何も悪くない。 悪いのは 全て 夫であり その夫のことを 誰よりも知っているはずの 夫の両親が 私を 支えるつもりが なかったことが 離婚 に結びついた。 夫と夫の両親の せいで私は 離婚したのだと 思い込んでいた。 私は 自分を 思いやりのある人間だと 自負していた。 こんなことになったのは 全て あの人たちのせいだと 間違いなく 思っていた。 そして離婚は 思っていたよりも早く スムーズに 成立した。