ある日道端で動けなくなった理由
離婚して三年が過ぎた。その前には別居をしていたのでもう元夫とは六年以上顔もあわせていない。
それが昨日偶然に別れた元夫と道ですれ違ったのである。私の方は自転車に乗っていました。彼は道の右端の方をこちらに向かって歩いていました。私は普段使わない道を通ってバドミントンの大きいカバンを自転車のかごに乗せていました。
お互いの距離が10m程になった頃挨拶をしなければならないなと諦めるような気持ちで彼の顔を見ると本人は私に全く気付いていない様子だった。
そうだったこの人は道で誰かにあってもほとんどそれを認識していない人だった。
人の顔を覚えられない、区別できない、そういっていた。
その通りだった。かなり先のところから彼であると気付いていた私とはまったく違っていた。素の顔だった。
年取ったなあとおもった。疲れたような顔に見えた。少し衝撃的であった。なぜなら幸せそうにに見えなかったからである。
大の大人が幸せそうに道を歩くようなことはまあないだろう。
私の勝手な妄想だ。
勝手に幸せそうでないと私が思い込んだのである。
そして家族で会った人を私が不幸せにしたのだと。
私の頭のなかで色々な思い出がフラッシュバックした。
かれのことだけではない。亡くなった兄弟のこと。
父や母のこと。もう皆いなくなった。
私は彼らを幸せにできなかった。
私は皆に依存していたのに。
私は自分の幸せだけを考えていた。
いろんなネガティブな思いが頭を駆け巡った
周りの人たちに幸せで笑っていて欲しかったのに。
私は周りの人間を幸せにできなかった。
私の頭は正直混乱していた。
家族だった人を私は不幸にしたのだ。彼に会いに行く子供たちはいない。寂しいに違いない。
私は晴れた昼下がりの明るい道の真ん中で大きな罪悪感のまま体が動かなくなった。
私はこれまで誰かを幸せにすることができたのだろうか。両親や兄弟は?子供たちは?
私はぞっとするような思いで彼の後ろ姿をずっとおった。
当然家を出て彼は近くのアパートに越して行ったのだから、どこかでこのようにばったり会うことは想定内であったけれどもこの六年一度も会う事はなかった。
その日は突然だったために私は動揺し暫く動けなかった。
家族でなくなった人が目の前に現れた。
ほとほと縁を切りたいと望んだ人だったが、確かに私の家族だった人が変わらず生きて生活をしているのだ。
それでいいんだ
私がこれ以上やることはない。
ただ長生きをしてくれたらいいと願おう。
私が望んだことではないか
私が自分のために望んだ道を自分が切り開いてここまで来たのだ
振り向くことには意味がない
せめて私は家族だったあの人の幸せを心の中だけで願おう
私がやるべきことは自分を優先して前をむいて幸せに生きること
くじけたり、動揺したり、後悔をしたり、私はまだまだ繰り返すことだろう
それでも自分は自分らしく生きることを望んでここまで来たのだ
本当の心の自由を求めていたのだ
彼を責める気持ちは少しもない
そして自分を責める必要もないのだ
自分が望む自分の幸せを求めて生きていこう
58才初めての一人暮らし
9月1日息子と娘がそれぞれ一人暮らしを始め私必然的に一人暮らしとなった。
同時に家族皆が一人暮らしとなったのである。
考えてみると私は一人暮らしをしたことがなかった。
実家住まいから結婚して、離婚をしても子供たちと一緒に暮らしてきたのだ。
58才だが一度も一人で暮らしたことがない。
正直気が付かなかった。
なんだか恥ずかしいことのように思える。
大切な経験をしてこなかったおばさんじゃないか?
子供3人は皆一人暮らしの経験があるのに、58年間一度もなかったのだ。
誰かと生活していたのが当たり前だった。
一番変化を感じるのは食事作りだ。自分一人分の食事だけ作る経験がないのだ。
もちろん今日は自分だけしかいない日などいくらでもあったが、決して自分一人ではなく、料理を作ればいつか必ず食べる人がいたのだ。
今はそこが違う。
多めに作っても、すべて自分が食べる以外に食べる人がいないのだ。
だから多めに作るのをやめた。
結構難しいことだが、冷凍しようとすべては自分が食べるんだということを意識しながら作るようになった。
そうなると作る量が減るし、自分がおいしいと思うものだけ少量作るようになる。
自分の健康のためにも、経済的な理由のためにもできるだけ自炊をしようと思っている。お惣菜を買って帰りたいような疲れている日でも、一人分なら何とか総菜の誘惑に打ち勝つことができる。
塩分の多い、高くて量の少ない総菜を買うなら、自分の好きな食事、すぐ作れるておいしい食事を帰宅してから空腹に耐えて作ることができている。
空腹の時間を健康に良いと思っているところもあるからだろう。
空腹の間に体の中の過剰な脂肪や糖分などを消費してくれていると思っている。
お腹周りの脂肪を体の中で消費してくれているはずと信じている。
一石二鳥じゃないか。
それだけではない。先ほどから書いているように、自分の好きなものだけ作れるのだ。
これまで常に子供が好きでおいしいと言ってくれるものばかり作ってきた。
もしくはカレーのように一品で皆が満腹になるものがほぼ献立を考えるときの基本的な考え方だった。
それが、今は自分がおいしいと思うものを一人分の材料費で自分好みの味付けで食べることができるのだ。
一人暮らしが長い人には当たり前のことだろうが、私は30年間主婦として家族のために食事を作ってきたのだ。職業病のようなものだ。
30年間の価値観は簡単には変わらないが、一人分のおいしい食事作りは魅力的であり、近いうちに当たり前の生活になるだろう。
明日もさらに58才の一人暮らしの変化を書いてみたいとおもう
人に期待しない
本を読み、人付き合いを続け、日々の生活を変わらず淡々送っていく。
そんな風にして離婚後私はもやもやした気持ちを抱きながら、何事もなかったような顔をして以前と変わらないような生活を続けた。
いや、本を読むことは、離婚前にはなかったことだ。
徐々に徐々に読書量を増やしていった。本を読んで自分の世界を広げないとならない、私が前に進んでいくためには本を読むしかないと意識的にも無意識でも感じていたに違いない。
決して読書は好きではなかった。
高校や大学のの同級生は本好きが多かった。あらゆる本を読んでいただろう。
出版社に勤めたり、自分で出版社を立ち上げた人もいたのだから。友人に読書家が多かったのは間違いない。
私は友人を賢い人たちだと尊敬はしていたが、彼女たちの影響を受けなかったのは残念なことだったと改めて思う。
今離婚して3年が過ぎた。元夫との関わりを切りたくて、それだけが望みで、25年の夫婦関係を解消した。
嬉しかった、生き返ったような感情だった。
ありのままの自分に戻れたような気持だった。
自分の中に懐かしい自分が現れていた。
そして穏やかな日常が当たり前になったころ、新たな不安に襲われた。
不安を解消するために私は本を読み始めた。
何も知らない私は本を読まなければ生きられない。
それだけは感じ取っていたのだ。
読書は苦手だったがとにかく気になる本は読み始めた。
ジャンルは問わずに誰かが紹介していた本を気になったら読んでみた。
少しづつ読書量が増えていった
気が付くとそれまでの自分が見えてきた。
元々自分がどういう人間だったかが見えてきた。
お帰り、あの頃の自分。ありのままの私はこういう人だったよね。離婚するなんて考えもしなかったあの頃の自分。
自分のことだけを考えていた子供らしい自分。
自分は正しいと何の根拠もなく思い込んでいたあの頃の自分。
無知な自分。
無邪気にワクワクしていた自分。
根拠のない不安を抱いていた自分。
見栄っ張りな自分。
嘘つきだった自分。
自分に向き合うことをごまかしている自分。
常に人のせいにする自分。
周りの人に依存している自分。
私を思ってくれていたたくさんの人たちのことも見えてきた。
その人たちを大切にしなかった自分。
そう、私は自分が見えてきてしまったのだ。
ごまかして、直視せずに生きてきたのに、はっきりと自分が見えてきてしまったのだ。
そして私は新たな不安の中で苦しんでいた。
生きる資格があるのか。
大人になれずにこの年になってしまった自分にゾッとしたのだ。
たくさんの大切な人を大切にすることができずに自分のためだけに生きてきたのではないか。
私ができることはたくさんあったのに。
父と母、兄と妹に謝りたかった。
私が無知でなければ、まだみんな生きていたのではないか。
でももう誰もいないのだ。
辛く悲しい気付きだったのだ。
過ぎた過去を私は後悔するばかりの時間が流れた。
それでも淡々と日常は過ぎていく。
同時に読書量も増えていった。
苦しみを心の奥に抱えていたが、私の心身は今までになく健康になったきた。
体重は9キロ減った。久しぶりの標準体重だ
時々眠れないことはあるが、結婚生活の後半の不眠状態とは全く違う。
睡眠をしっかりとる気を使って生活できていること自体違うのだ。
離婚から3年、本だけは読み続けた。
私の中で色々な感情が変化していったが、読書だけは複利で増えていったはずである。
最近になって、相対的に自分を見ることができるようになった気がしている。
本を読んできたおかげではないかと初めて思った感情である。
そして最近読んだ本でハッとひらめいたことがある。
今の自分に必要なことは「人に期待しない」生き方をしようよ
ということだ。
私は今58才である。
常に人に期待して生きてきたのだろうと考えている。
そのために周りの人たちに思いやりのある行動をとれなかった。
そして自分に対しても思いやりがなかったのだ。
思い切って、いやいや淡々と「人に期待しない」生き方に移行してみたら、これまでの不安から少しでも解放されるにちがいない。
私にまず欠けていた思考習慣だ。
58年かかってしまったが、この3年間の読書と58年間の長い経験から今の自分に伝えたい
人に期待しない生き方を
家族のカタチが変わる時
これまでも何度も家族の形は変わってきた。
兄や妹が亡くなった時
元夫が家を出たとき。
父や母が亡くなった時。
娘が地方の大学に入学したとき
次男が大学を卒業しニートになった時
娘が大学を卒業し家に戻った時
娘と次男がほぼ同時に就職先をやめてニートが2人になった時
長男が私を無視するようになったとき
そしてつい最近でいうと
二匹目のトイプードルが家にやってきた時
そして来月には娘が職場の近くのアパートに引っ越す時
次男が職場の寮に引っ越す時がある
子どもたちの成長とともに家族のカタチはますます変わっていく
来月は今までで一番大きな変化になる。
この家から今度はおそらく本当に2人の子供が自立して出て行くのだ。
大きく変わるのはこれまで家族のために食事を作ってきた。
それが今度は自分のためだけに食事を準備する。
買い物も変化するであろう。
月に支出するお金も減ってくるだろう。
当然作る物も量も変わってくるだろう。
今さまざまな原価製品を駆使して料理を作ることを楽しんでいる。
それらを上手に使用して毎日自炊することを楽しみにしている。
食費が王幅に下がることも楽しみにしている。
美味しくて健康的な食事をとることも楽しみにしている。
今回の家族の形の変化は表向きは母親の私にとって寂しいものに見えるかもしれないが今の私は正直楽しみなのである。
自分の好きなものを好きな時に食べ好きな時に準備する。
息子を満腹にさせるだけの食事は当分作らなくてよいのだ。
私のその任務はもう終わったのだ。
おそらく時々子供たちはご飯を食べに帰るだろう。
そのときは私は間違いなく喜んでたくさんの料理を作るに違いない。
その時までは気ままな一人食事を楽しんでいたい。
きっと私が少し飽きた頃子供たちが現れるだろう。
また新たに食事作りを楽しむ自分を想像することができる。
私は基本的に人が喜ぶことをするのは自分の喜びなのだ。
そこは私の幸せと結びついているはずである。
もう充分子どもたちには食事を作ってきた。
もうこれでいい。
これからは私が生きる
今回の家族の形の変化のときは私にとってとても大きな変化の時となるであろう
焦る気持ちを抑え、頭痛薬を飲んだどきにその効き目をまつように一息焦らず休んでその時をまとうと思う。
そして少しずつ少しずつしかも確実に前へ前へ進んで行こう。
新しい家族
ブログのテーマと同じ今日のタイトルは新しい家族である。
それと言うのも昨日娘が私に誕生日プレゼントをくれた。それがなんとトイプードルである。正確に言うとタイニープードルである。もちろんぬいぐるみではなく本当の生き物である。そもそもうちには小型犬がもう一匹いた。チワワとダックスフンドのミックス犬である。
そこに新たに四ヶ月のメス、タイニープードルが我が家にやって来ました。
名前はゆかり
この名前は先の住人しまこと対になっている。
ご存じの方もいると思うが、作家でタレントの岩井志麻子さんの志麻子から頂いたのだが、その岩井志麻子と仲の良い、夕方5時に放送されている5時に夢中という番組で長年共演されている新潮社の編集長、中瀬ゆかりさんのお名前から頂きました。
前々から次に犬を飼う場合の名前はゆかりに決めていた。
生放送の5時に夢中という番組はまるでラジオの放送を見ているような感覚の面白い番組でそこで毎週長年コメンテーターをしている2人にちなんで名前をつけました
そんなに深い意味はないのですが2人の面白さと仲の良さと人柄の良さが単純にこ飲んでいます。それが私の家の新しい家族の名前の由来です。
今日はゆかりがうちに来て3日目になるが新生児と年の近いお姉ちゃんを一人で育児をしている感覚になっている。
もう30年にもなるが私も3人の子供を育ててきてこんな風に子供中心の毎日を過ごした日々があったことを、そんなエネルギーがあったことを思い出しました。
新生児であるゆかりの***のおしっこの処理と一日3回の食事の世話でいつもの私の生活リズムはすっかり壊れている。それとともにお姉ちゃんであるチワックスのしまこに気を配っている。実はこの新しい家族が来てペースを乱しているのは実はしま子である。
普段ほかの犬にするように吠えることはないがとにかく気になって仕方がない様子。
用意した朝の食事もいっさい口をつけていない。
ゆかりの方も食事を今朝からほとんどしなくなった。新しい環境になかなか馴染めていないのかもしれない。人間も気がかりなことやストレスがあれば食事のことなど頭から消え去ってしまう。気がつくとお腹が空くこともなく体重がすっかり痩せることはたまにある。もしかしたら今二匹の犬はそういう状況なのかもしれない。
食事をしないのはまだ新生児で体が小さい為心配であるが、とにかく様子を見てみよう。さすがに子育てに関してベテランの域に達しているし、犬の世話も二匹目になると余裕が出てくる。改めて経験や余裕が幸せに生きるために大切なことなのだろうなあと余裕を持って考えてみた。
実際は新しい家族たちの世話をしていることは目の前のことに集中せざるを得なくなり精神衛生上いいのかもしれないと思っています。
ゆかりがもう少し大きくなって安定してご飯が食べるようになるまで頑張ってお世話をしてみようと思っています。
新しい家族に救われている今日この頃です